第5回 未舗装路ばかり
- 掲載日/2006年12月14日【ユーラシア大陸横断】
- コラムニスト/Erik Andreas Jorn
この旅初めてのキャンプ体験
自然を満喫しながらベラゴルスクへ
「Khabarovsk Lynx」のメンバーに別れを告げ、再び旅に戻りました。ハバロフスクからベラゴルスクまでは2日もあれば余裕を持って走れます。ハバロフスクを出たのは、午後を回ってから。それでも日が沈むまではのんびり走り、日が暮れたらキャンプをするつもりです。考えて見ると、この旅でテントを張るのはこの日が最初でした。いろいろな方に宿を提供してもらい、あまり苦労をしていませんね…。あたりが暗くなってきて、道から少し離れたところで適当なキャンプサイトを探しました。辺り一面が平野ですから、どこに張っても大丈夫そうです。BMWを停め、荷物を降ろそうとすると…大群の虫に襲われました。今まで見たことがないほどの小さな虫が、体を押し包むように集まってきます。でも、この日はこんなこともあろうかと虫除けスプレーを噴いきたので安心。テントを張り眠るときも、頭から被る虫除けネットを準備してきたので邪魔されることなくグッスリ眠りました。
翌日は早朝から走りはじめ、夕方にはベラゴルスクに到着。この街はロシアと中国の国境に近く、南に30分もバイクを走らせれば国境についてしまいます。中国は今回の旅のルートには入っていませんが、これほど国境が近いと思わずルート変更したくなりますね。ただ、ロシアから中国への出国手続きは、また大変なことになりそうなのでやめておきましょう。ベラゴルスクではOlegというロシア人医師に会う予定になっていました。彼はウラジオストックで出会ったSinusがくれた「Help List(ロシア各地で旅人を助けてくれる現地のバイク乗りのリスト)」に載っていた人物で、熱狂的なバイクフリークです。その日は、彼の同僚とディナーに出かけ、これから向かうルートについてアドバイスをもらいました。恒例のウオッカでの乾杯が進むほど、お互いの気心は知れていき、またまたこの街を出るのが心惜しくなってきます。ただ、私の旅は予定より2,000kmほど遅れてしまっており、この街では1泊しかできません。Olegに見送られ、また次の街へと向かうことにしましょう。
2000kmの凸凹未舗装路に苦しみ
カフェでの食事はとにかくマズかった
次の目的地、チタはなかなか規模の大きい都市です。噂によると路面も綺麗で走りやすいんだとか、楽しみです。しかし、チタまでの道中は苦労の連続でした。ベラゴルスクからチタへは2000kmほどで、距離だけを見るとそれほど遠くはありません。ただし、道が非常に悪いのです。舗装区間はほぼなく、埃っぽく凸凹の道が延々と続きました。時速20km以下で走らないと、危険な道も珍しくありません。周囲には松や白樺が茂る大森林が広がりその景色は非常に美しいと聞いていますが、道路の悪さのため景色を楽しむ余裕がまったく持てませんでした。「路面に穴は開いていないか」、「岩は転がっていないか」など、常に集中力が求められます。1日の終わりを迎えると、どっと疲れを感じてしまうんですね。ここでも夜は道から少し外れたところにテントを張り、晩御飯は自炊していましたが、疲れているときにテントを張るのは本当に面倒。ただ、誰もいない大平原の只中にいて、空気も綺麗ですから夜は星が綺麗に見え、静かな感動を覚えました。その感動を伝える相手はいませんが、たった一人でシベリアの平原で満天の星を眺める、意外と悪くないものです。
そうそう、このテント暮らしで一番辛いのは朝でした。早朝の気温は0度前後にまで下がり、寝袋から出たくなくなるのです。朝飯を作るのも嫌になる寒さでしたから、荷物をさっさと片付けて寝ぼけた頭で走り始めます。朝飯を食べていないので、お昼にはかなりお腹が減ってしまいます。お昼はロードサイドのカフェで取っていたのですが、ベラゴルスク~チタ間に寄ったカフェでの食事はどれもひどい味。信じられないくらい不味い! エネルギーをとらないと死んでしまうので、渋々食事をしていましたが「日本はインスタント食品ですら美味かったよな」と、日本でのささいな記憶が甦ってきました。インスタントの味噌スープとラーメン。その2つが手元にあればどれほど幸せだろう、日本から遠く離れたロシアでそんなことを考えながら大地を駆けていました。
ロシアの街は標識が少ない
大都会で一人迷子になる私
いよいよチタが近づいてきました。
「この辛い道もついに終わりか」。そう思っていたら突然のアクシデントに見舞われました。リアタイヤがパンクしてしまったのです。ベラゴルスクを出てしばらくしてから「リアタイヤがやたら滑る」とは思っていましたが、路面が悪いからだと思い込んでいました。あれだけ凸凹の道だとタイヤへの負担も大きいのかもしれません。パンク修理をしながら、前後サスペンションも少し心配になってきました。かなり派手に働いていたんですよ。ただ、BMW製なので大丈夫、と楽観的に思い込むことにしましょう。だって、サスペンションに何かあっても私にはどうすることもできませんから。
さて、チタの街に入りました。ビルが立ち並び、多くの車が行き交っています。このクラスの街に来るのは久しぶりで、なんだか落ち着かない気持ちになります。ひとまず街の中心に向かい、宿を探すことに。しかし「街の中心に向かう」、ロシアではこれは非常に困難です。どの街も道路標識は少なく、目的地がどこなのか、今どこにいるのか、わからなくなってしまうのです。案の定、私は迷子になり道端で地図を広げて唸っていました。すると親子連れの地元の方が「どうしたの?」と、話しかけてきてくれました。アレクサンドルとその息子です。困った人には手を差し伸べる国民性なのか、私を街の中心まで私を案内してくれ、ホテルの手配までしてくれました。ここでもまた、いい出会いに助けられてしまいましたよ。「ロシア人は冷たい」。そう評する旅人もいるようですが、私にはとてもそうは思えません。この日は街のあちこちを案内してもらったあと、自宅で美味いロシア家庭料理をご馳走になりました。アレクサンドルは非常に面白い男で、彼のお父さんはなんと「KGB」で将軍を務めていたというのです。おまけに本人も、以前ソヴィエト空軍のパイロットとして活躍したとか。アフガニスタンで自らが操縦する戦闘機が墜落し、仲間に救出されるまで1週間、山をさ迷った話など興味深い話を聞かせてもらえました。
翌日、アレクサンドルの薦めで、パンクしたリアタイヤをきっちりと修理することに。外したリアタイヤはアレクサンドルの知人のタイヤショップに運びこみ、これからの旅に支障ないか、きっちりとチェックしてもらいます。周りに何もない道中で何かトラブルがあれば、冗談ではなく生死にかかわりますから。先手先手のメンテナンスはこういう旅にこそ重要です。修理を待つ間、アレクサンドルからこの先の旅へのアドバイスをもらいました。「都市から都市への移動のときは充分に気をつけろ」とのこと。「故障のこと?」、「寒さのこと?」なんのことかと思ったら「盗賊」だそうです…。頻繁ではないそうですが、道中で盗賊に襲われることもある、とのことでした。実際、アレクサンドルは、遠出をするときにはいつも「AK-47自動小銃」を車に載せています。この辺りではそれは珍しいことではないようです。いざ襲われるとどうしようもなさそうですが、無事ゴールに辿りつけないと、いろいろな人に迷惑をかけてしまうので、気をつけましょう。といっても、やっぱり怖いのですが…。この続きは次回、ということで。ではでは!
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35歳。スウェーデン国籍。15歳のときに渡米し、アメリカで医学を学ぶ。大学卒業後に1年間海外を放浪し、その後来日。8年間を日本で過ごした後にR1200GSでのユーラシア大陸横断を企画し、現在は旅の途中。
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