第12回 タジキスタンへ
- 掲載日/2008年01月17日【ユーラシア大陸横断】
- コラムニスト/Erik Andreas Jorn
ウズベキスタンのヴィザがない!
ヴィザ無しで通過することに決めました
お昼頃にオシを出発し、西へと向かいます。できればまっすぐタジキスタンへ向かいたいのですが、この辺りの国境線は複雑で、ウズベキスタンを一度通らないとタジキスタンへは入国できそうにありません。旧ソ連がこの地域に進出してくるまでは、この地域には明確な国境線はなかったそうです。今の国境線が確定したのは1924年、スターリンが国境線を決めました。今の国境線にはいつくか問題があります。複雑な国境線のせいで、キルギスタン人の集落がウズベキスタン側にある、そんな問題が起こっています。各国の国境近くには他の国も民族の集落が飛び地のように点在しています。ただ、地元の人たちはたいした問題だと思っていないようで、何も気にせず気軽に国境を行き来していました(笑)。彼らには国境がどこにあるのか、など自分たちの問題ではないのでしょう。しかし、ヴィザを必要とする外国人にとっては、この地域の複雑な国境線は大きな問題です。道をまっすぐ進むとウズベキスタンの国境にたどり着くのですが、ウズベキスタンのヴィザを持っていないためウズベキスタンに入国することはできません。ただ、ビシケクのタジキスタン大使館で聞いた話では「ちゃんとした道はないが、キルギスタンとウズベキスタンの国境沿いのダートを走ればウズベキスタン国境の検問所を迂回できる」そうなのです。
そしてキルギスタンとウズベキスタンの国境にやってきました。キルギスタン国境の職員にその道を通ることを話したら「キルギスタンを出る書類は揃っているから問題ない。国境を出てからのことは俺たちに関係ないから」とのこと。ただ、検問所の迂回ルートを走行中にウズベキスタンの軍隊に見つかったら拘束されてしまいます。それを心配してくれたのか、国境の職員は私が間違った道に入らないよう、ダートの入り口まで案内してくれました。ダートを数キロも走れば、地図には載っていない道があるそうです。そこはウズベキスタン国内なのですが、オフィシャルな道ではなくチェックポイントは何もないのだとか。厳密にいうと不法入国なのでちょっとドキドキしましたが、他に選択肢はありません。ただ、進むのみです。ダートとそれに続く道はモンゴル以来の酷い道でした。しかし、確かにチェックポイントはありません。途中テントで1泊したものの、何の問題なくタジキスタン国境の検問所にたどりつきました。タジキスタンの国境職員は、観光客が通らない道から私が現れ非常に驚いていましたが、笑顔で私を招きいれ、お茶とタジキスタンのパンをご馳走してくれました。もちろんタジキスタンのヴィザは持っていますから、問題なくタジキスタンに入国することができましたよ。
最高に過酷で最高に美しい
タジキスタンの峠越え
タジキスタンに入国し、この国第二の都市「ホジャンド」に向かいました。この街はかつてレニーナバドと呼ばれており、今もレニーナバドと呼ぶ人の方が多いようです。街の歴史は2500年前まで遡ることができ、この街を作ったのは何とアレキサンダー大王なのだとか。歴史のある街なので古くから大きなバザールが開かれ、中央アジアで最大のバザールがこの街にはありました。私は時間がなかったため、ホジャンドはパスしてすぐに首都「ドゥシャンベ」向かいましたが、時間があれば街を散策してみたかったですね。
ドゥシャンベに行くには3000m級の峠を2つ越えなければいけません。この2つの峠は本当に難所でした。天候は悪くなかったため山からの景色は絶景だったのですが、道は好天で溶けはじめた雪で濡れ泥だらけ、険しい道にはガードレールがまったくなく、かなり怖い思いをしました。ただ、この山道は今回の旅で1,2を争うほど美しい景色が広がっていたことも確かです。よそ見をしたいけど、よそ見できない道でしたね。峠を降りる途中に夜が更け、道中にあったカフェのオーナーの好意で近くにあるアパートに1泊させてもらいました。外はかなり寒かったので、テント泊をせずに済んでラッキーです。旅人に優しい人があちこちにいてくれるおかげで、この旅がどれほど快適に過ごせているか…人の優しさは本当に有難いものです。
翌朝は朝早くに起きました。ドゥシャンベへ行く前にちょっと寄り道をするためです。メインロードから30kmほど離れたところに、この辺りでは有名なイスカンダルクル湖という湖があり、そこへ向かいました。湖までの道は非常に未舗装路ですが楽しい道で、景色も最高です。私が湖についたのはまだ午前中で、ラッキーなことに観光客はまだ誰もいません。近くの売店でメロンとパンを買い、誰もいないイスカンダルクル湖を独り占めしながら、ゆっくりと朝食を楽しみました。観光もそこそこに湖を後にし、ドゥシャンベと続く道にあるもう1つ峠を登りはじめましょう。この峠も雪が残っており大変だったのですが、過酷な峠越えはもう慣れてしまっていて、特筆することはありません。いつもと同じように大変だった、というだけです(笑)。それよりもこの辺りの峠はどこも頂上からの景色は絶景ばかりでした。かつてペルーやネパールへの旅行で見た山からの絶景に匹敵する壮大な景色を、峠ごとに楽しめます。タジキスタンという国は素晴らしい国ですね。
峠を下り、走り続けるとだんだんと首都へと近づいてきているのがわかります。少しずつ道路の舗装がよくなってくるのは大きな街が近い証拠。地図を見なくてもそれくらいはわかります。道路工事がところどころで行われていて、久しぶりに交通渋滞に出遭いました。もちろん車の列に並ぶことなんてしません。せっかくバイクに乗っているんですから、すり抜けをしてサッさと先へ進みます。急いで走ったおかげで、何とか日が暮れる前にドゥシャンベに到着することができました。
ソ連時代の方が豊かだった?
中央アジアの現実を知る
日が暮れる前だとホテル探しはそれほど難しくありません。メインストリートにあるホテルにチェックインを済ませました。私が泊まったホテルは1500円程度で宿泊ができ、財布に優しいのも嬉しいところです。ドゥシャンベで、私がまずやりたかったことはご飯でもお酒でもなく、洗濯でした。手持ちの服はどれもなんとも言えない臭いを放っています。ここのホテルは安いのに、ホテルのスタッフに頼めばランドリーサービスも受けてもらえます。これまではお風呂で自分の手で洗濯をしていましたが、この日、私はシャワーをゆっくり浴び、夜のドゥシャンベの散策に行くことができました。こういうサービスを受けられると、アジアから少しずつヨーロッパに近づいていることが実感できますね。
街を散策し、ホテルに戻ってくる途中に母国スウェーデンとデンマークの人間に会うこともできました。SorenとKjellという二人の男性です。彼らはアフガニスタンのカブールで働いており、短い休みをとってドゥシャンベまで遊びにきたそうです。せっかくここまで来たのだから私はアフガニスタンを走ることも考えていましたが、彼らの話を聞くとアフガニスタンを走ることはやめた方がいいのかもしれません。アフガニスタン北部はそれほど危険ではないそうですが、南部では自爆テロも起こっているそうです。「北部なら大丈夫かな?」と思ったものの、もう少し情報を集めてから決めることにしましょう。その後に別の人に聞いた話ではアフガニスタン北部でも外国人の行方不明者が出ているとのこと。ただ、アフガニスタン政府は観光客に来てもらいたがっているらしく、ヴィザの取得は簡単にできるそうです…どうしましょうか。。
ホテルでゆっくり睡眠と取り、翌日はカザフスタンのヴィザを取りにいきました。カザフスタンのヴィザは以前に2回、東京とウランバートルで取得していたのですが、旅のスケジュールが遅れたためどちらも期限が切れ、新しいモノが必要なのです。この日はヴィザ取得手続きと近所をのんびり散歩するだけで終わりました。ちょっと疲れ気味なので、こういったのんびりした1日を過ごしたかったのです。ここでたっぷり休養し、まだまだ続く旅への体力を養います。翌日も遅くまで寝て、のんびりするつもりだったのですが…早朝から激しくドアをノックする音に起こされました。ドアを開けてみると、ロシア人のおばさんが私の洗濯物を持って立っています。洗濯物が出来上がったのか、と思いましたが、そうではありません。洗濯機から取り出したばかりの洗濯物を私の部屋に干しにきたのです(笑)。抗議をしようかと一瞬思ったものの、おばさんはズカズカと部屋に入ってきて、シャワールームや椅子の上、窓際などにテキパキと洗濯物を干していっています。ヨーロッパ式のランドリーサービスを期待していた私が間違っていたようですね…。おばさんに抵抗するのをやめ、もう一眠りすることにしました。たっぷりと寝て、カザフスタン大使館へ。昨日頼んだヴィザを無事取得できました。しかし不思議なのは、東京のカザフスタン大使館でヴィザを取ったときは5日待たされて12000円、ウランバートルでは1日待って16000円、ここドゥシャンベでは1日待って5000円で取得できました。同じ国のヴィザなのになぜ価格も取得にかかる時間も違うのでしょうね?? 不思議でなりません。その後は、街で知り合ったフランスのNGO団体に勤める人たちの食事に招待され、そちらにお邪魔してきました。タジキスタン国内でNGO活動に励む人、アフガニスタンで活動する人、ヨーロッパから多くの人たちがこの地域を平和にするため、豊かにするために訪れています。母国から遠く離れ、頑張っている人たちに刺激を受け、私も残りの旅を頑張ろう、と心に近いました。
その後、銀行に書類を取りに行ったときにお世話になったMackという流暢な英語を話す銀行マンと飲みにいくことになりました。飲みながら彼から聞いた話が驚きだったので、ここで紹介しますね。彼は「最近はタジキスタンの経済はよくなってきている。でも、ソ連時代の方がもっと暮らしやすかった」と言うのです。この話はロシアでもモンゴルでも、これまで通ってきた“~スタン”の国々でも何度も耳にしました。私が教育を受けたスウェーデンやアメリカでは「ソビエトがいかに酷く、恐ろしい国なのか」を教えられ、それが真実だと思ってきました。しかし、旅をすると昔の教育は偏った視点で教えられていたことに気づきました。旧ソ連は道路を整備し、発電所も整備し、生活環境をちゃんと整えています。また、ほとんどの人が読み書きができるよう教育機関を充実させ、女性にも社会で生きるさまざまな権利を認めていました。こちらの人々はソ連時代のそういったいい点をよく覚えています。もちろんMackはソビエト時代に戻りたい、と言っているわけではありません。ソビエトから独立するために6万人もの人が死に、何百万人もの人が家を失った結果手に入れたのが今の独立国家であるタジキスタンです。大統領は完璧な人間ではないことは認めた上で「でも、街を銃弾が飛び交うことはなくなった」と平和を喜んでいました。まず第一に平和を、経済や暮らしぶりはこれから良くしていけばいいと言っていたのが印象的でした。
35歳。スウェーデン国籍。15歳のときに渡米し、アメリカで医学を学ぶ。大学卒業後に1年間海外を放浪し、その後来日。8年間を日本で過ごした後にR1200GSでのユーラシア大陸横断を企画し、現在は旅の途中。
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